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わが短歌の原風景

■「北海道新聞」2009年10月22日号発表。角川短歌賞受賞作の発表直前に書いたもの。一部改稿。

 

 私は札幌市に生まれ育ち、現在も北区の北端、郊外のニュータウンにて両親と同居している。少子高齢化というが、近所ではそこまで多く老人を見ない。また小中学校は市内でもトップクラスの生徒数である。いたるところに空地が広がり、都市開発は牛歩の進みである。現在の日本が直面している社会問題とは逆方向を行っている。 

 北海道の郊外は本州のそれとは別種のように思えてならない。郊外に当然あるべき都心部が、北海道には存在しないように感じられる。都心部が文化の発信地であり、道路や鉄道によって文化が郊外に拡散してゆくという郊外社会モデルは北海道にはあてはまらない。文化の発信地は常に東京であり、北海道は都心部をもたない巨大な郊外としてでんとそこに置かれているように思えるのだ。もしかすると首都圏以外の地方都市はみなその傾向があるのかもしれない。しかし近代以降に整備された人工都市・札幌にはとりわけ顕著な「空洞」傾向がある。

 登別市在住の歌人・松木秀の短歌には、「郊外」をうまく捉えたシニカルな作品が多い。

 

  ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に 

                       松木秀『5メートルほどの果てしなさ』

 

 闇を奪われた、のっぺりと明るい世界。北海道とは、それ自体が本州の郊外に建設された巨大なニュータウンなのだ。ニュータウンは奇妙な明るさをもっててらてらと輝いている。そこは消費しかない世界なのだ。生産の裏でこぼれてしまう闇は、もうコンビニの棚くらいにしか存在しない。

 しかしいくら北海道の郊外の奇妙さを見つめたところで、私にとって故郷はここにしかない。私が二〇〇八年に毎日歌壇賞を受賞した歌は、まさにそうした絶望に支えられたものだった。

 

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく     山田航

 

 親の収入を超せない以上、親元にいるくらいしか豊かな生活を享受する方法はない。短歌のような文化活動を続けていくためには、故郷にしがみつかざるをえない。故郷を離れることは、非人間的な生活を強いられることにほぼ等しい。中流層の没落とは、そういうことなのだろう。松木の歌と私の歌がどちらもコンビニのペットボトルというものを共通の主題に据えているのは決して偶然ではない。それが中心部を喪失し周縁部だけが残された新しい郊外社会の象徴ともいえるアイテムだからである。コンビニは、経営システムも店舗運営システムも、中心が空洞化したままオートマティックに進んでいるのだ。

 このたび私は「夏の曲馬団」五十首で角川短歌賞を受賞した。しかし、実は前年の賞でも「サバイバル・メガロポリス」という作品で最終選考を通過している。派遣社員などの非正規労働者問題を意識して作った連作だった。自分自身が日雇いのアルバイトもしていたこともあり、関心の強い社会問題だったからだ。

 

  走らうとすれば地球が回りだしスタートラインが逃げてゆくんだ

                       山田航『サバイバル・メガロポリス』

  ドナドナの仔牛は俺らとは違ひもつと丁寧に運ばれただらう

                          同

  脱ぎ捨てればひとでのやうに広がれるシャツが酸つぱい匂ひを放つ

                          同

 

 「スタートラインが逃げてゆく」とは、機会の平等を奪っておきながら自己責任を要求する社会への怒りが生んだ表現だった。地方在住者にはひょっとしたら共感を寄せてくれる向きがあるかもしれない。しかしこの「スタートライン」はあくまでするすると「逃げてゆく」ものであり奪われるというイメージではない。機会を分配する権力の中枢の不明確さゆえに、ひとりでに逃げてゆくものとしか感じられない。都心部の消失した郊外と、中心部の欠落した社会とは、きっとパラレルなのだろう。私が短歌を作っているときに思い浮かべている原風景は、つねに真ん中にぽっかりとした穴が開いているのだ。