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啄木が死なない理由

〈上京〉がつなぐ近代と現代

■「短歌研究」2012年6月号発表。「特集・没後百年 石川啄木」に寄せた文章。コンセプトは「短歌研究に現代詩手帖みたいな原稿を書く」。

 

1 放浪の意味――北海道から東京へ

 

 一九〇七年、石川啄木は北海道の地へと渡って来た。当時二十一歳だった。函館、札幌、小樽、釧路と転々としながら一年弱を過ごしたのち、上京する決意を固め北海道を離れた。なぜ啄木は北海道に渡ろうと思ったのだろうか。直接的には義兄が北海道で駅長として働いていたのでその伝手を頼ったというのが大きい。ただ、それだけでは説明の付かないロマンを追い求めていた部分もあると思う。

当時の北海道各都市の人口は函館と小樽が九万人程度、札幌は十万人程度。札幌が行政都市であった一方で、函館や小樽は商業都市として札幌に負けない活気があったようだ。啄木の北海道時代の回想が描かれているのが『一握の砂』のなかの「忘れがたき人人」の章である。

 

函館の床屋の弟子を

おもひ出でぬ

耳剃らせるがこころよかりし

 

函館の青柳町こそかなしけれ

友の恋歌

矢ぐるまの花

 

樺太に入りて

新しき宗教を創めむといふ

友なりしかな

 

真夜中の

倶知安駅に下りゆきし

女の鬢の古き痍あと

 

かなしきは小樽の町よ

歌ふことなき人人の

声の荒さよ

 

 「忘れがたき人人」というタイトルにもあらわれている通り、啄木が北海道の思い出として綴り続けたのは一貫してその地にいた人間たちの姿である。それも生活者としての彼らの姿。北海道の自然にはあまり目を向けようとしなかった。これは啄木という歌人の性格として象徴的な要素だと思う。あくまで人間が関心の中心であった。これは、北海道に住む人々に彼自身とどこか似た部分を見出していたからではないか。わざわざ北へと渡ってきた人々の内部に潜んでいる、限りなく闇に似たものへの共鳴。

 

夜、例の如く東京病が起つた。新年の各雑誌を読んで、左程の作もないのに安心した自分は、何だか恁う一日でもジツとして居られない様な気がする。起て、起て、と心が喚く。東京に行きたい、無暗に東京に行きたい。怎せ貧乏するにも北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ、東京に限ると滅茶苦茶に考へる。噫、自分は死なぬつもり、平凡な悲劇の主人公にならぬつもりではあるが、世の中と家庭の窮状と老母の顔の皺とが、自分に死ねと云ふ。平凡な悲劇の主人公になれと責める。

啄木日記・明治四一年一月七日

 

 北の地を渡り歩いた経験は、確かに啄木にとって大きなものだっただろう。だからこそ歌集のなかにわざわざスペースを割いて当地の思い出を詠んでいるのだ。しかし彼の作品の根底を形成していたものは結局のところ、「故郷・渋民」と「首都・東京」との緊張関係のなかにあったのだと思う。啄木が初めて上京をしたのは旧制盛岡中学をカンニングで退学になったあとの十六歳のとき。出版社への就職を目指すも、うまくいかずに帰郷している。二度目は十八歳のとき。詩集出版を目的としての上京だったが、僧侶であった父親が宗費滞納により住職の地位を解かれ、一家を退去せざるをえなくなったためにまたもや帰郷することになった。二度に渡る上京の失敗。これはきっと、啄木にとって大きな心の傷になったはずだ。それがいかに大きなショックであったかは、啄木の時代において上京というものが持つ意味をしっかりと把握する必要がある。

 

2 〈上京〉というシステム

 

飛行機

一九一一・六・二七・TOKYO

 

見よ、今日も、かの蒼空に

飛行機の高く飛べるを。

 

給仕づとめの少年が

たまに非番の日曜日、

肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、

ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

 

見よ、今日も、かの蒼空に

飛行機の高く飛べるを。

 

 啄木が亡くなる前年に書かれた詩『飛行機』である。このほかに『はてしなき議論の後』など八篇を集めて『呼子と口笛』という詩集の出版を計画していたが、結核に倒れたためにそれはかなわず、遺作集に収録されることになった。

 私が啄木の作品のなかでもっとも愛しているのは、短歌ではなくむしろこの詩のほうである。七五調の美しいしらべもさることながら、ここには啄木が抱いていた素朴な理想が、ひいては近代人の純粋な夢があふれているように思えるからだ。

 この「飛行機」は現代人の目からすると紙飛行機や模型飛行機のような、少年的なノスタルジアをはらんだものに見えてしまう。しかしこの詩が書かれた時代は近代式航空機の急激な発展期と重なっており、「飛行機」は当時の最先端テクノロジーだった。日本初の動力飛行が成功したのはこの前年、一九一〇年の十二月のことである。

 啄木は元来エリート志向が非常に強い性格だった。神童ともてはやされた少年期に形成された自己像から、生涯抜け出せなかったのだと思う。旧制中学時代には海軍の軍人に憧れていた。カンニングに手を出したのも、エリートコースから振り落とされたくない一心だったのだろう。

 日本初の動力飛行に成功したのも陸軍の軍人であった。軍隊は当時の最先端テクノロジーを支える重要な存在だった。『飛行機』では、当時のテクノロジーの粋たる航空機を通じて、「成長」という近代的観念への素朴な憧れを綴っている。蒼空を高く飛ぶ飛行機は、未来への希望の象徴なのだ。飛行機が飛んでいく先にはきっと、未知の幸福が待っている。

 肺病を病んでいる母親をしっかりと支えてやることを目標として、貴重な休日を英語の独学にあてる給仕の少年の姿。それは啄木自身の少年期の姿とは異なる。そこまで殊勝で親孝行な少年ではなかった。しかし、地道な努力の先に幸せが待っているとひたすらに信じる心を持った少年の姿は、紛れもなく啄木自身の写像なのだと思う。真面目に学んでいれば貧しい生まれでも平等にエリートになれる。エリートになれれば幸福をつかめる。実状はどうあれ、そういった思想を素朴に持てる社会への素直な賛歌が『飛行機』なのだ。

 そして〈上京〉というシステムは、この近代的な幸福観と深く結びついていた。真面目に学業に励み、故郷を離れて都会の学校に出る。親と故郷に恩返しをするために、あえて親元を離れ故郷を出る。近代型の首都として成立した東京は、その象徴だった。文部省唱歌『故郷』(高野辰之作詞)三番の「志を果たして/いつの日にか帰らん/山は青き故郷/水は清き故郷」という歌詞もまたその理想の典型的な表現であろうし、そういう歌詞を教育の場で歌わせる必要があったのだろう。エリートはすべからく東京に住むものであるという意識が、おそらくは啄木のなかに強く根を張っていたのだ。

 結局のところ啄木は挫折者だった。エリートコースから振り落とされた、ピラミッド構造のなかのその他大勢の一人だった。しかしそれをどうしても認めたくなかった。エリートへの憧れが、エリートの象徴の街である東京に対する思慕へといつの間にかすり替わっていった。前述の日記に綴られた「東京病」にしてもそうだ。世の中と家庭と老母が自分を責めてくるという妄念にとらわれたのは、啄木の心のなかにエリートとしての強い使命感がずっと眠り続けていたからだ。期待に応えなくてはいけないという思い。自分はこの程度の人間ではないのだという思い。利他的な精神と利己的な精神がせめぎあって、はてはたがいに溶け合って肥大化していく。近代において東京はただの首都ではなかった。それはひとつの思想であり、社会システムだった。

 社会がそういう構造で成り立っている可能性に気付いたとき、啄木が北海道にロマンを見て海峡を渡った理由が、そして北海道に幻滅するように再上京していった理由が、なんとなくわかった気がしたのだ。〈故郷(地方)―首都(東京)〉という二極構造を抱えた社会からこぼれ落ちかけていた啄木は、そこから自由になりたかった。しかし誰もが平等なスタートラインに立ち、努力をすれば幸福になれるという近代の神話だけはなおも信じたかった。だから北海道だった。近代以降になって初めて開拓された北海道の地には、「純粋な近代」がまだまだ生きているように感じられた。北海道に渡れば、再びスタートラインに立てるかもしれない。もう一度エリートへの道をやり直せるかもしれない。いや、すでにシステム化されたエリートのラインなんかじゃない、自分自身がこの手でシステムを作り出せるような環境があるかもしれない……。そんな予感が、きっと啄木のなかにはあった。そしてそれは、啄木にとって初めての〈上京〉システムへの反抗だった。

 結果としてみれば、啄木の期待は裏切られたのだろう。いくつかの街を渡り歩き、いくつかの新聞社に勤めたものの、そこには平等なスタートラインなんてものは結局見つからなかった。北海道の「近代」の純粋さは、すでにそうとう「現実」に蝕まれていた。啄木が勤め先を転々としたのは直接的には上司との不和が続いたからだが、どんな良い上司とめぐり会えていたとしても同じことだったと思う。そもそもにおいて、啄木が北海道に抱いていた情熱は、東京に対する片思いの裏返しでしかなかった。東京が自分のことをなかなか振り向いてくれないという思いから、理念の面で東京に近しいものがあるという理由で、その代替物として北海道を選んだにすぎない。

 啄木が近代の進歩主義に憧れを抱いた背景には、「平等」思想への共鳴がきっとあったのだろう。日記に「東京病」と書きつけたわずか三日前、啄木は社会主義者・西川光次郎の講演を聞きに行っていた。大いに感じ入るところがあったようで、西川本人とも面会を果たしている。このとき西川は労働者のような出で立ちで、普通選挙論を説いていたという。「東京病」の発症は、エリート志向のぶり返しばかりではなく、社会主義への傾倒も原因のひとつとしてあるだろう。そして啄木が社会主義に共鳴した最大の理由も、実のところこの「平等」にあるのではないかと思っている。啄木は出自が他の人とは違うという感覚をずっと抱いて生きていたのだろう。他人と同じ地点に立ちたいという思いを、ずっと胸に押し留めていたのだと思う。

 啄木にとって北海道は〈地元―東京〉の構造から逃れるための、いわば第三極を求めに行った地だったのだろう。そして〈地元―東京〉の板挟みにあって苦悩したのは明治の青年石川一ばかりではない。現代の青年だって同じように、第三極を求めに旅立つ行動を起こすことがある。その第三極が沖縄だったりインドだったり、場合によっては具体的な土地ではなくサブカルチャーや思想やビジネスだったりする。そしてそれらはたいていの場合迷走だ。「東京」へ向かう道を一度見失ってしまったら、もうどこへ行ったらいいのかわからない。啄木を悩ませた〈上京〉というシステムは、現代もなおしぶとく生き残り続けている。〈上京〉に失敗した者は、じゃあ別の新しい街を目指そうという考えにはならない。なったとしてもその道は〈上京〉より険しい。そうなったら「地元」に帰るしかない。首都である「東京」は勝利の地。「地元」は敗北の地。そんな構造が、いつの間にか社会の奥底にこびりついてしまっているのだ。

 

3 『一握の砂』における「故郷」の位相

 

 『一握の砂』には啄木の「地元」渋民を詠んだ歌が多く収められているが、そのすべてを単なる望郷歌と括ることはできない。啄木の描く渋民の地は、「学校」「村」「自然」という三つの位相に区分することができる。

 

「学校」

不来方のお城の草に寝ころびて

空に吸はれし

十五の心

 

よく叱る師ありき

髯の似たるより山羊と名づけて

口真似もしき

 

「村」

ふるさとを出で来し子等の

相会ひて

よろこぶにまさるかなしみはなし

 

石をもて追はるるごとく

ふるさとを出でしかなしみ

消ゆる時なし

 

「自然」

かにかくに渋民村は恋しかり

おもひでの山

おもひでの川

 

やはらかに柳あをめる

北上の岸辺目に見ゆ

泣けとごとくに

 

切り分けられた三つの位相はそれぞれ、「学校」は近代、「村」は前近代、「自然」は時代性を超えた絶対的なものに擬せられた構造になっている。「学校」は前近代的な「村」を近代化するための装置であり、「自然」は前近代のさらにずっと昔から変わらずそこにあったものだ。啄木にとって故郷渋民は牧歌的で懐かしい土地であり、望郷の思いも強く抱えていたが、愛していたのはもっぱら「学校」と「自然」の世界だった。「村」は啄木にとって辛い記憶そのものだった。父が追いやられ、むりやり生活へと対峙させられる羽目になった原因が、渋民の土俗的な村社会だった。

啄木は村社会に充満する停滞した空気を破るためにあえて「学校」と「村」を対比させて突破を図ろうとしていた。「学校」の延長線上にある近代の象徴として「東京」はあり、その写像として「北海道」があった。「東京」は文化の最前線に直接触れることのできる華やかな世界である。その華やかさにも憧れてはいたが、啄木がもっとも重視したかったのは、ドロップアウトした自分がまっとうにスタートラインに立てる平等性だった。東京の雑居性・無名性や、北海道のフロンティア性は、ときにはすべての人々の過去を無化する作用を持っていた。その無化作用に、啄木は未来の可能性を見ていた。

 

こころよく

我にはたらく仕事あれ

それを仕遂げて死なむと思ふ

 

 このあまりにも素朴な労働観には、とてつもない屈折が透けて見える。そんな「仕事」の存在を信じていないからこその歌のようにも思う。

 

そのかみの学校一のなまけ者

今は真面目に

はたらきて居り

 

小学の首席を我と争ひし

友のいとなむ

木賃宿かな

 

かつてともに学校生活を過ごした級友たちのほとんどは、「学校」から「村」の世界へとそのまま移行し、村社会の一部を担う構成員となっていた。啄木はこういった者たちを心のどこかで蔑んでいたように思える。「仕遂げて死なむと思ふ」ような仕事は、「村」にはあってはならなかった。「村」には平等がない。進歩がない。ただ子孫へ続く生活のバケツリレーを目的とするだけの人生に取り込まれることは、父を渋民から追いやった村人たちと同類になることだった。きっとそれだけは避けたかった。

 結局のところ啄木は、本人はエリートの道を挫折したにもかかわらず、いや挫折したからこそ、近代的エリート養成と不可分だった〈上京〉システムの限界をその作品のなかに露呈させえたのではないかと思う。ある程度の教育を受けたばかりに、進むべき道を閉ざされた瞬間に目的地を見失い、社会的に宙ぶらりんになっていく。その結果として、進歩を捨て去った一介の「村民」となる覚悟も持てず、エリートの夢を諦めきれない中途半端なインテリゲンチャと化す。啄木はその典型だった。やり場のないエリート願望はそのままではかたちをとることができず、「東京」という地域や、「小説家」といった職業へとすり替わっていった。可能性の平等を信じ、人間の進歩を信じるほど、その思いはどんどん空転していった。そのような苦悩と強い自意識を抱えた青年は啄木以外にもたくさんいただろう。しかしはっきりと言葉に残すことができたのは、啄木くらいだった。

 

4 「地元―東京」の呪縛――映画『SR サイタマノラッパー』

 

 今回の論で語りたかったことは、啄木の苦悩と迷走は現代の青年たちとも十分に共有できるものではないか、近代と現代はある一点において何も変わっていないのではないかということだ。変わっていない一点とは、「地元―東京」の構造である。

啄木と同質の苦悩を端的に表現した現代の作品例として、二〇〇九年の映画『SR サイタマノラッパー』(入江悠監督)を紹介したい。埼玉県北部のレコード屋もライブハウスもない田舎町でヒップホップ・ミュージシャンを目指す青年IKKUとその仲間たちの物語である。郊外社会の閉塞感、未来なき時代に夢を持つことの滑稽さ、そして生活の現実を知ってもなお夢を諦めきれない青年たちの姿が描かれている。これといったプライドがあるわけでもないのに「地元」にとどまり続けながら、アメリカの音楽を模倣してプロを目指す姿は、格好悪いといえば格好悪い。「地元」にとどまり続けざるをえないこと。それもまた一種の「東京病」である。目指すものが軍人だろうがミュージシャンだろうが小説家だろうが、「本物」であるためには誰もが特定の一地点へと出ていかなくてはならないというシステムの正当性に悩み、その壁の前に立ちつくしているのである。

 映画の前半部分にこんな台詞が出てくる。

「埼玉とか関係ねえんだよSHO-GUNG(ショーグン)には。ここ埼玉から世界に向けて Soul to Soul 、メッセージを届けてんだよ、俺らは」

 SHO-GUNGとはIKKUたちの組んでいるユニットの名前である。この台詞は、東京でAV女優をしたあとに突然帰郷してきた元同級生・千春に向けて言ったものだ。その直後、「宇宙人かよ」と鼻で笑われる。IKKUも本当はわかっている。あえて地元の埼玉を拠点にメッセージを発信したいだなんてもっともらしい台詞は、真っ赤な嘘であることを。実家で暮らせるという既得権益を失いたくないだけのただの言い訳であることを。IKKUも啄木と同じで、嘘をついてでも自分をよく見せたがる癖がある。それだけにラストでヒップホップ・ファッションを脱ぎ去ったまま絞りだすように歌われる、「自分には何もない、だけど諦められない」という本音をぶちまけたラップが際立つ演出になっている。彼にとってのヒップホップ・ファッションは、自分自身に嘘をつきごまかしてきた虚飾の象徴だったからだ。ヒップホップ・ファッションを脱ぎ去ったことで、IKKUは逆に真のヒップホップを手に入れた。

 一緒にやっていこうと語り合っていた仲間は「本気で音楽をやるため」に上京を決意し、千春もどこに行くとも言わずにまたどこかに去る。IKKUは地元に残ったまま、アルバイトを始める。映画の冒頭で「ライブをやるぞ!」とはしゃいでいたが、結局最後までSHO-GUNGはライブを開かないまま空中分解してしまう。「一旗揚げる」という典型的な〈上京〉からは取り残され、東京でも地元でも何の救いも得られなかったのだろう千春を追うこともできず、しかし生活と現実に押し潰されることだけは拒み続ける。結局何一つ変えられなかった、ただの中途半端な奴と言われてもおかしくない。しかし、「地元―東京」の構造のいびつさには気付いている者の選択だ。啄木が提起した問題が、二十一世紀の映画に登場する戯画化されたラッパーにもそのまま通用しているのである。

『飛行機』の詩がノスタルジアにしか感じられないのは、悲しいことである。「給仕づとめの少年」を自分の分身だと考えられない。理想を説いた古いビルドゥングス・ロマンの主人公にしか思えない。どうしても未来を信じられない。未来を変えるための一方法論として「上京」はいまだに生きている。「地元に残って故郷を元気にしたい」と言う人よりも「ここを出て一旗揚げたい」と言う人のほうが、まだ誠実に感じられてしまう。

しかし本当は、どちらが誠実かなどは意味のないことだ。「地元―東京」という対立軸そのものを解体させなくては、きっとこの苦悩は終わらない。啄木とIKKUはその対立軸に囚われ続けている点で同一線上の存在である。啄木が現代の青年たちのなかにも生きられるとしたら、そういう部分だと思う。貧しさを詠んだ歌が現代のワーキングプアに響くだなんて、戯言もいいところだ。啄木本人の実人生とそれは噛み合っていない。しかし、啄木がどうしようもない焦燥感と苦悩ばかりを抱えて渋民、東京、北海道を転々とした、そのことだけは紛れもない事実だ。

啄木の作品が死ぬ日は、きっとまだまだ遠い。殺したくても殺せないだろう。この社会は、世界は、現代人が思う以上に、啄木の時代から何も変わっていないのだ。