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休み時間じゅう顔を伏せて寝たふりをしているきみへ

■「トルタの国語 冒険の書」(2010)掲載作。国語の教科書風というテーマだったため、中学生の頃の自分に語りかけるイメージで書いた。個人的にもっとも思い入れのある文章。

 

 きみは青春のなかにいる。勘違いしてはいけない。輝かしい恋や友情や挑戦の日々ばかりが青春ではない。青春とは身体におさまりきらないエネルギーが無軌道に暴走していく時期のことだ。友達も恋人もいなくて、いいことなんてひとつもなくて、休み時間はずっと机に突っ伏して眠ったふりをしたまま悶々と思い悩む鬱屈した日々にだって、まばゆいばかりの輝きがある。声にはだせないけれど、お腹の奥に煮えくり返ってどうしようもない言葉があるはずだ。まだ真っ黒なかたまりのままとぐろを巻いているだろうその言葉が、いつか竜巻のようなうねりとともにきみの身体を突き破ってくる。言葉という真っ黒なうねりはきっと世界のすべてを吹き飛ばして、きみがきらいなあらゆるものをちっぽけな砂ぼこりにしてくれる。でもまだきみはその言葉未満のかたまりにかたちをあたえるすべを知らないかもしれない。そこでぼくはきみのためにこんな楽器を用意してみた。五・七・五・七・七。このリズムに言葉をのせてみよう。今までの胸のぐるぐるは何だったんだろうと思うくらい、すうっと言葉がかたちになっていく。ルイ・アームストロングが言葉にならない叫びをトランペットの音へと変えていくように、あとはかたちになったきみの言葉が勝手に暴走してくれるのを待つだけだ。きみの孤独な青春は美しい。きみのうつむいた暗いまなざしはきらきらしている。きみの煮えたぎるような激しい呪詛は、モーツァルトもうなるくらいのメロディを奏で始める。ぼくがきみに用意したその楽器には、昔から伝わるこんな名前がある。短歌!

 

一度でも我に頭を下げさせし

人みな死ねと

いのりてしこと  石川啄木

 

これほどに飾り気のないむき出しの言葉に、人はときに激しく動揺する。動揺させてやるんだ。無力だってかまわない。きみの言葉がかたちになれば、必ずそこには道ができる。石川啄木は実は社会性がまるでなくて、女遊び好きの借金魔だった。そのくせに自分の創作の才能だけはひたすらに信じていた。プライドのかたまりのような男だったから、こんな歌を詠んだ。きみも啄木と同じだろう? 根拠なんて何もないけれど、自分だけは他人と違うと信じているだろう? それは間違っていない。そのお腹の奥に渦巻く言葉があるかぎり。

 

豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている  浜田康敬

 

生きることも大人になっていくことも、しょせんはすべて生殖のために奉仕することだ。きみがどうしようもなく妬ましく思っている奴だって同じだ。家族と引き離されて育ち、しがない印刷工兼夜間学生として若き日を過ごした浜田康敬という人の歌に満ちているのは、青春への憎悪だ。そして青春を憎悪できるのは、同じ青春の特権だ。恋愛? 要するにあの豚どもと同じことをしたいんだろう? それくらいの気持ちで見つめてやればいい。青春は、憎悪すらも美しくさせる。

 

海のこと言いてあがりし屋上に風に乱れる髪をみている  岸上大作

 

たとえ恋をしたとしても、きっと片思いだろう。恋焦がれるほどに不安で自分がみじめになるだろう。それでいいじゃないか。岸上大作は片思いのエネルギーだけでこんなにきれいな歌を詠んだ。彼はもてなかった。その果てに失恋を理由に二十一歳で自殺した。おそらくは生涯童貞だった。

 岸上の恋愛はとてつもなく自己中心的だった。相手の都合もかまわずにいきなり「うちに遊びに来ませんか」で押すばかりだった。ふられるのも当然だっただろう。しかし、自己中心性こそが青春の本質なんだ。きみはひたすら自己中心的になるべきだ。人生でこんなに自分のことばかり考えていても許される時期なんてほかにない。「海」も「屋上」も手の届かないはるか向こうの象徴だ。きみは手の届かない遠くのものばかりずっと見ていればいい。そうすれば、心置きなく自分のことばかり考えていられる。

 

歩きだせクラス写真の片隅の片隅ボーイ片隅ガール  五島諭

 

歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

 

きみはこれからたくさんの嘘でたらめを耳にすることになる。そのひとつが「本当の自分なんてない」だ。他人から見える自分の姿こそが本当の自分なんだと恥ずかしげもなく言われたりするだろう。彼らはどうやらひとりぼっちになったら存在が消えてしまうらしい。きみはひとりぼっちになんて慣れっこだろう。誰からも無視されているきみは、それでも確かに存在しているだろう。文学は孤独な作業だ。それは自分の作ったものを「いいものはいい」と最終的に決定できるのは自分ひとりしかいないからだ。突き詰めていけば誰だってひとりになるのに、彼らはひとりぼっちの人間なんて人間じゃないと言い放つ。だまされちゃいけない。他人の目から見えるきみなんて絶対にきみではありえない。きみはきみが放つ強烈な思いのなかにだけ存在する。きみが少しシャイで、うぬぼれ屋と思われるのが恥ずかしいのなら、そのときこそ短歌がある。短歌にのせていっしょにつぶやいてみよう。「自分yeah」と。

 

転向の冬変節の夏いまや謹みて言ふ――敵はおまへだ!  高島裕

 

撃ち堕とすべきもろもろを見据ゑつつ今朝くれなゐの橋をわたらな

 

きみはきっとどうしようもない生きづらさ、息苦しさを感じて生きていることだろう。その生きづらさの核はどこにあるのか。見つけ出すためには、きみはひたすらきみを見つめ続けなければいけない。自分がなぜ生きづらいのか叫び続けなければいけない。しかし「生きづらさの表現などもう飽きた」などと平然と言い放つ無神経な連中もいる。彼らは生きづらさの責任の一端が自分たちにあることを認めようとしない。生きづらさの正体を見極めようともしないで逃げ回っている。格好悪いだろう。きみははっきりと言わなくてはいけない。お前たちが「生きづらさの表現」に飽きている以上に、ぼくたちは生きづらい社会をつくった責任を自覚しないで逃げ回っているお前たちの姿にうんざりしているのだ、とね。

 

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

 

駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに

 

上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに  斉藤斎藤

 

ほんのりとさびしいひるはあめなめてややあほらしくなりますように

 

 歌人たちは言葉をぶつけることで戦っている。とてつもない破壊力を秘めた言葉を目にしたとき、人はたじろぐ。この言葉は危険だ。そう言いたがっている目を見たくはないか。世界秩序というくだらないものを突き刺しえぐり出そうとする中澤系の鋭いナイフを。板金を裏返すように世界をぐんにゃりとゆがませてゆく斉藤斎藤の鈍いバールを。感じるはずだ。同じまなざしで世界を見ている者たちの言葉だ。彼らはこんないかれた言葉を発しながら、きみの肩をつかんで強く揺さぶっている。その目を見つめ返してやるんだ。きみと同じぎらぎらとした輝きを放った目だ。

 

山手線とめる春雷 30才になれなかった者たちへスマイル  永井祐

 

去年の花見のこと覚えてるスニーカーの土の踏み心地を覚えてる

 

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる

 

きみも世界と戦わなくてはいけない時が来る。しかしきみにはきみの戦い方がある。いつまでも武器や鈍器ばかりが有効ではない。きみは断絶されている。最初から徒党を組んで反抗できないようにあらかじめ牙をもがれている。なんて不利な戦いだろう。しかしこんな戦い方をとる人もいる。

 永井祐は叫んでみた。「世界は楽しい」と。あらゆるものを吹き飛ばしてまず世界を肯定する。それを無邪気で思慮浅いと受け取ってしまう連中は、あまりにナイーブすぎるとんだピエロだ。世界肯定の裏側にある、暗いまなざしと隠し持ったナイフにまず気付かないと話にならない。永井祐が選んだ戦い方は、ちっぽけな日常を、ちっぽけな自分を肯定することで、どこまでもひとりぼっちになっていくことだった。こんなみじめな世界を面白いと言い続けることがどれほど孤独でさみしいことか。しかしそれに打ち勝たなくては、世界は変えられないんだ。みじめな世界を最低だと言うことは簡単だ。人と同じことを言えばいいだけだからだ。あらゆる孤独や悲しみを飲み込んでなお「楽しい」と言える人間は、危険で恐ろしいじゃないか。変革者はいつだってあまのじゃくだ。そして永井祐は危険で恐ろしいくらいのあまのじゃくを、とてつもない覚悟とともにやっている。いたって脱力した自然体で。そんな人間だけが、システムを変えられる。

ひとりぼっちでどうしようもなくてやりきれなくて、それでも片笑みを浮かべて言ってみよう。「世界は素晴らしい」と。実際に素晴らしいかどうかなんてどうでもいい。そう言い切ることに意味がある。どんなにろくでもない世界でも、きみだけは必ず価値があるのだから。価値があるきみならば世界を変えられるのだから。きみがこれからどんな方法をとって戦っていこうとするのかはわからない。ぼくができるのは短歌という言葉のかたちを紹介することだけだ。短歌のリズムは、世界と戦い続けてきた歌人たちの汗と涙の結晶だ。喜びも怒りも悲しみもぜんぶ同じかたちに盛り付けてきた。いまのきみが持っている感情はただ「苦しい」ということだけかもしれないけれど、短歌はどんな感情も五・七・五・七・七というひとつのかたちできみの目の前に開かれている。飛び込めばいい。どんなものであっても、それがたったひとりのきみが生み出したたったひとつの言葉であることだけは、誰にも否定しようがない。ぼくは信じている。きみの身体の奥に眠るどす黒い渦巻きの可能性を。

 

  靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン  山田航