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出会えなかった友との話

■「東京新聞」2011年4月13日号発表。珍しく短歌と関係のないエッセイ。「M君」は実在の人。ちょっと調べればすぐ実名もわかるけれど、あえて「M君」と呼びたかった。

 

 M君と出会ったとき、彼はもうすでにこの世にはいなかった。ちょっとした縁から初めて訪れた札幌のギャラリーで、かつてそこによく通っていた彼の存在を知った。作曲家を目指していたという北大生で、二十二歳のときに旅行先の高知で水死したそうだ。彼が生前に作った音楽や美術作品、書いた文章などをまとめた本を手渡された。写真の中で微笑む青年の顔は、不思議と初めて見た気がしなかった。

 彼と私は共通点が多かった。同い年で、ともにクラシックギターをしていた。私の両親と同じ高校出身であることも親近感を抱かせた。札幌の街のどこかですれ違っていたかもしれない。もし彼がまだ生きていたなら、きっと出会えていたはずだ。どんな話をしていただろう。彼が愛する音楽や美術の話などを、聞いてみたかった。写真の笑顔しか知らない彼の、真剣な顔を見てみたかった。

 ギャラリーには彼の写真が置かれ、彼の作った曲がしばしば流され、生前の彼を知る人が時折訪れた。彼の作った『撓む指は羽根』という詩的なタイトルの曲は、私同様に生前の彼を知らないミュージシャンによってジャズアレンジされた。四分の五拍子が印象的なナンバーだ。出会ったことのない人間なのに、彼を喪った悲しみを少しずつ感じるようになってきた。死してなお人を引きつける磁場を、彼は持っていた。

 彼が亡くなった二〇〇六年の八月頃、私は社会人一年目で、仕事の辛さを紛らわすように短歌を作り始めた。入れ替わるようなタイミングだ。彼と私はずっとすれ違っていた。同じ年に同じ街に生まれ、すぐ近くにいながら結局は出会えなかった。絡まるはずだった糸は、彼の死によって途切れてしまった。もし彼と出会えていたら、きっと親友になれただろう。芸術論を闘わすこともできただろう。今も私はギャラリーに足繁く通い、オーナーがたまに語る彼の思い出話を聞いている。その度に、彼の不在の気配を感じる。会ったことがないのに、彼がそこにいないことが不自然に思えてくる。今だって写真と同じ笑顔を浮かべて、ギャラリーの戸を開けて来訪しそうな気がするのだ。会ったことがないのに。

 私の存在を知ることなく去った彼を、私は確かに友人だと思っている。彼の作品は遺っており、彼の魂の一部には触れることができている。M君、来世こそ出会って、親友になろう。