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誰もスピッツを愛していなかった

■小樽在住の詩人・杉中昌樹氏編集のフリーペーパー「詩の練習」の、特集「日本のロック」へ寄稿したもの。

 

 長嶋有に「センスなし」という短編小説がある(河出文庫『泣かない女はいない』収録)。舞台は90年代で、学生時代に聖飢魔IIファンだったせいで「自分には音楽センスがない」と思い込み続けている女性が、その後の人生のあちらこちらで「センスなし」の自意識に絡め取られる話。それでは作中で「センスあり」の音楽の例として挙げられているのが何かというと、スピッツと小沢健二である。

 しかし90年代にまさに青春を過ごしていた僕の世代にとって、「スピッツのファンである」と公言することはとてつもなく恥ずかしいことだった。端的にいって「センスなし」とみられる言動だった。僕は『白線流し』の主題歌に使われていた「空も飛べるはず」でスピッツを気に入り、98年の「フェイクファー」が初めて買ったアルバムだった。「ロビンソン」きっかけではない。だからスピッツファンとしてもやや遅れて入っている。その時点でも十分ダサいのだが、CDショップの店頭でたまたまスピッツのPVをずっと眺めていたのをクラスメイトに見られてからかわれたことが決定的に「スピッツファンであることは外に出してはいけないんだ」という意識を植え付けた。スピッツのインタビュー集『スピッツ』(ロッキング・オン)を読むと「良質ポップ」的イメージでまとめられるのは断固拒否しようとするロックなスピッツ像がしっかりと記されていて「これが本当のスピッツなんだ」と強く思っていたが、「女子供向けバンド」という周囲の偏見を払拭することは難しかった。なお小沢健二は90年代後半の時点ですでに「あの人は今」扱いであり、スピッツ以上にダサい音楽とみられていた。フリッパーズ・ギターを聴き返してめっちゃええやんと感じるようになるのはもっと後のことだった。

 00年代も後半になってからインターネットなどで「スピッツはアンチのいないバンド」なんて言説が大手を振ってまかり通るようになっていて目を丸くしてしまった。僕はろくにスピッツファンに出会えない(だから仕方ないのでファンクラブに入っていた)状況だったのに。90年代はどう考えても日本中にスピッツアンチが溢れていたのに。僕の肩身の狭い思いはいったい何だったんだろう。ついこの前見た音楽番組に至っては、スピッツに「国民的バンド」という紹介文が付されていた。国民的バンド……。そんな国民、僕は知らない。あの頃スピッツファンはもっと迫害されていて、互いに身を寄せ合っていた。当のスピッツも、もがきながら多様な音楽性にチャレンジしていた。しかしそんな過程はなかったかのように、スピッツはブレイクと同時に確固たる地盤を得て、絶えずトップセールスをひた走っていたかのように語られるようになってしまった。

 百歩譲っても、「センスなし」の登場人物のようにスピッツを新鮮なものとして受け取った世代とか、スピッツが最初からロックスターとして君臨していた若い世代とかがそういう言説を頭から信じ込んでしまうのはまだわかる。しかし同世代の連中はどうなんだ。違和感を覚えないのか。スピッツを「センスがない音楽」とみなしていた連中は、今どこにいるんだ。実感とまったく違うところで90年代に対する「物語」が創造されはじめている気がする。寒気がする。ゼロ年代以降の日本がどんどんひどくなっているせいか、必要以上に90年代が美化されてきているのかもしれない。「日本のロックが華やかだったあの頃」の象徴としてスピッツが選ばれ(今では考えられないほどの長い下積み期間を経て大ブレイクしたからだろうか?)、勝手に権威としてまつりあげて擦り寄っているようにすら感じられる。今のスピッツは、大御所になってしまったことへの戸惑いでいつもふわふわしているように見えてしまう。

 1983年生まれの僕の世代で「センスあり」の音楽とみられていたのは、たとえばHi-Standard。たとえばミッシェル・ガン・エレファント。そしてヒップホップ。特に90年代、ヒップホップは盛り上がっていた。クラスで一番センスのいい奴(確か美容師になった)が好んで聴いていたのはBUDDHA BRANDやSHAKKAZOMBIEだった。やはりギャングスタ・ラップのイメージは強かったので「弱そうな奴は大体友達」な僕には敷居が高かった。でもヒップホップこそにセンスの最先端がある印象だけはひしひしと感じていた。とりあえずスチャダラパーのベストアルバムをTSUTAYAで借りて聴いてみたが、なんだかさっぱり分からなかった。不思議な敗北感に打ちひしがれた。自分はやっぱりセンスがないのか。所詮はスピッツくらいしか分からないレベルなのか。悔しかった。

 ちょうどその頃、THA BLUE HERBがファースト・アルバム「STILLING,STILL DREAMING」を出していた。1999年だった。札幌が騒然としていた。しかし僕の耳には、まだ届いていなかった。